前回の続き
別に私は、インドの皆様に、「だからバラモン制度を変革せよ」などと申しているのではなく、バラモン教ヒンドゥー教という伝統文化はインドの伝統なので、あくまでも私は「この観点から宗教に基づいた社会身分制度についてはそう思う」と述べているだけです。バラモン教だけでなく、仏教でも何でもそうです。何でもそうというのはこれから説明しますが、特にインドの場合、宗教観に関連する社会身分制度が世界的に有名なので言及したまでで、日本でも歴史的に1000年以上前の話ですが、仏教僧と都市が結びつき腐敗が進んだので、天皇が遷都して僧を置き去りにしてその影響力を排除した、という話は日本人だったら誰でも知っています。この場合は、社会身分制度としては上に天皇(国王)、周辺に仏教僧、貴族とか、要するに社会身分制度は存在しますが、インドと違う点は「輪廻の結果」という観点が希薄という事で、これは日本の場合でも当時の身分制度です。
話は今、現代に移って、仏教の国でも国教に指定したりして、要するに政治と結びついていますから、南方仏教でも「いや、政治に干渉していない」「政教分離だ」と主張するかもしれないが、側から見たら、教えとして影響力は絶大ですので、「政教は分離しているのか?」という印象を持たれるでしょう。そもそも「出世間の理」とは何か?という話です。いや、「出家修行してるからいいのだ」と彼らは述べるかもしれないが、それだと↑のバラモンと同じです。バラモン階層らも「いや、そんなに政治にあーだこうだ言ってないよ」と主張するでしょうし、「出世間」という点が論点です。「出家」って何なのかな?と。
私は「比較宗教学は王の学問」である、と申しましたが(別に当然、私が王様だと申しているのでは全くありません)、比較宗教というのはその教義実体が「空」です。バラモン教にしても仏教にしても、内容は様々な宗教によって異なりますが、外観的には教義実体は「有」です。その内容が「空」を説いているにせよ、教祖(はバラモン教には無いか)と教義が「有」ります。つまり、今一つ丸を紙面上に書いていただいて、それを世間、社会としよう。もう一つ丸をその隣に書いてもらって、それを宗教としよう。この丸と丸の接触をもって「一致」離れれれば「分離」という事にして、丸を互いに重ねれば、一致の度合いが深く干渉度合いが深い。政教分離、出世間の観点からして、教えを与える(宗教が社会に)というのは、丸と丸がどのような形態を取るのか?接触が必要ですから、しかし接触が過ぎると「出世間」ではないのではないか?と、難しい。
この観点からして、比較宗教というのは丸の中に体を有しないので、プライベートパートというのはさらにその丸の中の小さな丸に過ぎません。つまり接触はするものの接触はしていないのです。接触しているという訳でもしていない訳でもない、と言えば正確でしょうか。ゆえに、出世間の理、そこから導いた政教分離からして、より矛盾が無いのです。
上のように言われると、「東南アジアの南方仏教だって、影響力からして、もう彼らの国の中で独占支配的ではないか。言葉で言ってるだけで、政治と完全に結びついてるよ」と思われるでしょう。
比較宗教には実体が無いという話でした。(個々人が比較した結果として、そのプライベートパートが宗教化する場合もある。しかし、本質的には「比較宗教」。王は持ってきた宗教を比べるという事)
「出家」とはどうしてなのか言ってください。修行なら社会の内にとどまり、筋トレとか出来るではないですか?どうしてなのか?という事。
追記)
宇宙の理屈も、比較宗教も非一非多(一つの教えという訳でも、多数の教えという訳でもない。空なる宇宙原理との整合性よりの議論から)と、難しく考えずとも、不幸にも交通事故に遭って死んだ人に対して、彼の前世を考えて、出した結論に基づいてその親族らの政治制度を設計運営してはダメですよ。