まだホテルに滞在中なので
ようやくインドにやって来る事が出来ました。ムンバイというインドの経済中心都市におりますが、もっとビルに囲まれた大都会をイメージしていたが、インド的な雰囲気で街が広がっているという感じです。経済成長してもっとNY的なベクトルを想像していたけど違ったね。外人もあんまり見かけないよね(インドの現地人ばかり)。まだ街の事が分からないので何とも言えないですが、基本的にインド人らが児童猥褻被害者らを助ける空気みたいなの、直感で感じないよね。
日本の旅行で四国にも立ち寄り徳島だけ(車で)遍路に行ったのですが、どうしてインドの宗教を下に置いている(インドの宗教は未だ仏教に到達していないという事で、10の位の内の3階目。真言密教は10段階目です)弘法大師が必要なのか?と疑問を抱くかもしれないが、必要というか大学院がそうだったんで、基本的に私はヒンドゥー教でも他の宗教でも、言葉を強く言えばそれはその宗教の教義であって、真理というのはもっと深いものという認識でそれを取り囲む形で宗教が形成され、各々精度の程度に差がある。故に、結論として日本真言密教は精度が低い宗教なので、四国遍路場には端の時点で場に負荷がかかると言いますか、あのような弘法大師の口調だと、例えば長老の怒りや不快感を買う(自分達からも絡んでいく(「低い階梯はそっちだ」のように))ので、場の配置としては地獄とか下界の配置が相応しい。そういう意味では、下界配置の修行道場という特性を考慮した上で、それを踏まえた上でそこから何かしらを引き出す手法という観点、その場を利用する目的が重要だ。
弘法大師の私の評価としては、以前にももうしたように、大師はテキトーというわけでなくて大乗自派を中国で継承し、「形」力によって従来仏教より修行効率を上げようと試みて、当人は成功したと考えていたが、失敗した、という事です。「形」力というのは、私の認識だと武道の型の思想と類似性が見られ、剣道でも空手でも本当のところはさておき「達人には型がない」などと言われますが、最初から型が無い用いない教授法より、中段の構えという型を用いて教授していくのが、大雑把に言えば「形」力です。
近日中、落ち着いたら、インド生活をまた写真と共にブログに載せようと思います。