前回の補足

2025年09月03日

 下方配置という考え方が難しい、建設的な感じがしない、と思うかもしれない。確かに、日本人らに「お前らは地獄行きだ、地獄配置だ」などと言っても、それは、私のような個人に対し理由もなく暴挙を働いたり、児童を犯したりすると、地獄かどうかはさておき下方に力が働く道理であろう?

 そういう話ではなくて、色々な場合があろうが、基本的に例えば地獄配置だと、現在ではなくて、なくてというと誤りだが、三世は繋がっているので過去に悲惨な大量虐殺があった土地等でこの配置を用いて修行道場などを設営すると、その場に配置が適合するわけだから力を有する。

 弘法大師は己が精緻であればこそであって、仏教でもインドでも南方の修行者らを想像して買えば、彼らをかなり下位において、まだまだ甘い自家には遠く及ばない、南方仏教に関して言えばそこの門下に行くぐらいなら悟れる可能性が残っている地獄の方がまだマシ、のような事を言っておいて実は全然違ったということになってしまうと下方に落ちそうであろう?大師の詰んだ徳、修行力とどのように相殺されたのであろうか?(輪廻思想前提で)

 つまり、大師はまだ奥の院で今も生き続けて修行しているという信仰があるけれども、過去の遍路道場の創設者として位置付け、下界からの配置を設けて、例えば高知(修行の道場なので)等で極めて厳しい修行を課すと場も生きようが、日本人らがやるとも思えんし、昔からの文化で出来上がっているので既得権益もあり、これは難しい。

 場の適合という話も常識的な範疇で、快楽殺人組織のような所で天界の配置を用いても配置が生きない感じがするでしょう?軽々とそれをやる理由を説明出来ぬのに配置を行なってはならない。天界だ地獄界だと軽々しい。特に神像を扱う場合は尚更です。臨機応変にやるということだ。

 ITで風水理論を転用する話もしたが、そういうものに軽々しく天界の配置だ、などと設定を入れるのは良くない。基本的に四大の要素を家の周囲に自由に置けるという事だ。あっちに「風」をおいてこっちに「土」とか。設定でこれは何々界の並べ方だ、のような縛りは設けない。楽し気に営利目的で軽々しい。それは個々人の勝手に任すべき。