音楽道
(2026.4. 6 ~)
本学は通常の電子楽器等を使用して演奏される音楽や音楽大学で教授される音楽理論の類ではなく、音楽を介しての宗教的な修行の道に関する論考である。
昨今、とりわけ最近始まった流れという訳でもないが、音楽文化の特に若者に対する影響力は甚大であり、しかし結論から述べると音楽には修行道なるものが存在しない。しないと言ってしまって良い程巷間において認知されていない。ロック、ジャズバンド等で自身の音楽性を追求している者、音楽大学で博士号を取るような者達、著名なコンクールでの受賞者らが音楽の修行者ではないか?彼(彼女)らは居るではないかと疑問を抱くだろうが、繰り返すがここにおいて言及される内容は宗教的な修行である。大きな決定力を持つ音楽は大勢の人々、演奏者、聴き手双方にとって刹那的な享楽に過ぎないもの。青春の一ページで終わってしまう思い出。娯楽の類。ここら辺りから終季への「道標」が存在しないという、世界的な教育観点よりこの現状は放置されるべきではない。
*現時点での比較宗教学の帰結より、インド系の宗教ないし南方仏教等が念頭に置かれて「道」が形成されている。本稿は比較宗教学ではない事に留意されたい。ゆえに例えば「六道輪廻思想」等が登場する。さらにはお経や真言が持ち出されるが、真言の内容等はこれも比較宗教学の帰結によって、有される意味内容は書き換えられている点にも注意されたい。具体的に例を挙げると、真言密教の尊格と同じ名称形態の尊格を招致している場合であっても、その尊格は別種と見よ。
本論では真言句の引用が多用されているが、比較宗教学の結論より残したインド由来の宗教、例えばジャイナ教のさらには南方仏教の経や尊格の引用は見当たらない。比較帰結から導くならば、真言密教宗の主たる構成要素よりもそちらの方に注目して招致、引用すべきではないか?…この問いに対しては、まずは教授内容の相性の問題がある。”感覚的感受享楽より己の身を守る”、この点に関して真言密教の立場は今更言及するまでもなく、修行に際して積極的に五感を活用するものと解して間違いあるまい。更に真言宗は”大きく誤っている”と結論したので、その場に尊格を置いておくよりこちらに持ってきても道の理に反すまい(配置)。比較した結果残った宗教は私の理解範疇を超えている箇所がある事からもまた明確に過ちを指摘していない事(これはどう見てもおかしい変な事を言っている書いてある、という指摘)よりも、本稿の方法論創出が目的でいたずらに触らぬ方がよい。
音楽に関する修行方法論
俗に言われる所の音楽の修行(己が理想とする音楽の追求とその提示)とは如何なる修行であろうか?各々が「音楽修行」という言葉をどのように定義して日常取り組んでいたにせよ、結局の所示される結果(音楽として結実するもの)は聴き手視点より以下の三種に大別されよう。
1 享楽的な音楽(聴き手が心地よい、その音楽をその音を聴いていたい、聴き続けたいと感じるもの)
2 聴き手の感情・思念を揺り動かす刺激する音楽
3 上のどちらでもない音楽
*上1、2、3の一方に区分けされるという事ではなく、いずれかの度合いが強い弱い。
音楽大学等で理論的に教えられる音楽の特性は2にあると見てよい。例えば「転調」という概念は学習して記憶しなければ、その音の一連の流れを聴いてもそれが転調だと理解し得ない。演奏者により転調が引き起こされた際に、聴き手が享楽的に感じたり感情が揺り動いたにせよ、学習を伴わなければ転調だと気づけない。このことは学問を共有している者達の間のみに記号化された思念の動きが起こったという事であり、理論が難解で複雑であるほど演奏技術が技巧的であればあるほど、これはそのようだという理解に伴う感情の起伏は極めて恣意的(人造的)な産物と解する事が出来、密室の内(解読者の室)に心遊ばせる事を享楽とするものである。
しかし、結局のところは、1〜3が複雑化したのみに終始してしまう場合が大分であろう。その終始の内に修行という意味内容が収まっているという話だが、人によってはそこに宗教性が介在する(神と演奏者)場合も考えられる。
それでは、本稿の修行論とは一体いかなるものであるか述べる。上1〜3を”三徳”を踏まえて捉え直す事から始めよう。ならば1よりも2、感情を刺激する音楽とは、これは大いに感動させるが善い。失望や絶望、不快感を与えるようなものよりも、尤も聴き手が嫌気して聴くのを止めてしまうという自動的ブレイカー装置機能は存在するが、人に感動と喜び、勇気、気力を与える音楽家とは善行の徳に通ずる者と解してよかろう。このように意識し直した所でそれを実行に移すのは難しく、指摘されるまでもなくそのようでありたいと一般的な認識下の音楽修行とほぼ内容は等しい。ここで注意したいのは、思念を揺り動かす学問の音楽という事で恣意的に徳をそこに潜ませれば発音が真理の徳に通ずるという理屈になる訳だから、例えば、この音の組み合わせは真理の徳の何々を表すものだという理解が或転調のように広く共有されれば、発生した思念は浄に導かれる事になる。人工的に設計した形(音)によって修行(ここでの修行は学問の徳の意)の道が共有されたという理屈となる。音は記号化された。
では、ここで「転調」の際の記号化とは何であったか?今一度考えてみよう。音は、ドレミ…という音階によって定義され、どのような楽器種類によって発生した音であっても抽出され般化される。これはファの音だと。それら構成要素の並び流れをもって転調を示す事から、音は余韻をその内に含めたにせよ時間の内に消え去ってしまうものだけれども、我々の感覚器官をひとまず信ずるならばそれに依存して築かれた概念には永続性が認められる。それでは、或徳を特定の音、音を構成要素とするものと結びつける場合はどうか?先のように事象が抽象される訳でもなく、必然性も伴わずに個別のもの同士を縛り付けるような作業となり、その試みを完遂したにせよ時間的に持続出来ずにその場限りのものとなろう。人間は不自然で納得出来ぬものを退けよう(忘却)とするから。しかし、音楽とは元来はその場限りのものであった。
音を他概念と接続させる際のヒントを探るべく、必然性とは何か?今一度転調を例に取って考えてみると、先の音が”転じて”変化して後続の音になるという事。この場合の必然性が何によって形成されているのかというと、同一の楽器における連続的な出音であったり、同じ和音数の構成の場合も、同程度の発音時間であったり、例えるなら、ピアノの短音のドの5秒間の出音を有名なギターのみで構成される一曲全体に転調させたと主張した所で、それを転調だという風に定義すれば転調であるという話になろうが、必然性の介在は希薄と見る。ドの短音をレミファソラシの和音に転調させたという主張も似たようなもの。では、ドの短音をドミソの和音に変化させた場合は、これは構成音数は異なるが先の単音を後続和音の内に含んでいて、和音の醸し出す響きが享楽的であると感覚器官に依拠してそう主張する者が多い事から、転調を導く構成として納得されるかもしれない。
(音楽理論の転調(コード)をここに示しておく)
*前後に並ぶものの概念は同種であり、聴き手は前後で別の音への変化に気づくが、その繋がりにおいては享楽的と感じる(でなくとも転調だろうが、演奏者は通常そうしまい)。前音と後音(コード)のみ場合とは別の音(転調音とでも言おうか)が前後の組み合わせ次第によって生じる。(後段の修行法における音接続についての示唆)
音楽修行の手法について
当然に本稿での修行の手段とは音楽をもって、出音を伴う行為でなければならない。
まずは、真言密教に伝わる『虚空蔵求聞持法』に着目する。これは弘法大師が若い時分に室戸の巌窟に籠り真言を繰り返し唱え続けたとされる荒行であるが、基本は三密瑜伽の観点からのアプローチで見てよい。
業は身口意の三密によって形成蓄積されるので、三密を清める姿勢を示して修行の目的でもある。三密を瑜伽せしめる事によって効果の最大化を狙っている。という解釈で問題ない。
身 … 自身の体で虚空蔵菩薩を顕す印相を組む。
口 … 尊格(ここでは虚空蔵菩薩)に関わる句(真言)を唱える。
意 … 尊格を思い念ずる。
この三密によって現出される尊格が三徳に接近していればいるほど、浄なる効果が大きいと解する事が出来るので、口からの出音の真言を作出される音楽に置き換えられれば、真言から音句に転変した浄なる余韻を引き継ぐものとして、砂に描かれた曼荼羅の様にそれが永続的なものでなくその場限りのものだとしても、共有され得る。尤も、一人真言を唱える際には、あくまで自身の口から己を発端として真言句が現出するわけであり、口からエネルギーを放出し続けるわけだから、体の内から出でるとしてその意味において空観の是認も出来る。ここではあくまで音楽を奏でるのは演奏者であるから、聴き手は自身の口から発しているわけではない(共に真言を唱えることは出来る)。その効用の部分的欠如に関する影響の議論は一旦留保しておくにせよ、形の作用からして転変した音が短い時間内であったにせよ、他のニ密にも支持される形で有徳を音形が持続させる事に関しては、その場限りにおいては間違いないと思われる。但し、場の継続上、発音からの享楽の程度が過不足無い程でなければならぬ。とどのつまり作法が大事という事。
では、次に真言句を音句へと変成させる際の作法について考える。『虚空蔵求聞持法』からも分かる様同じ句を反唱する事から、上記で検討した内容を踏まえて、構成とはミニマルリズムの体に近しい。転変に際し音の体種や句長を整えて、演奏者は思念を真言句から音句へと、気を抜く事なく移さなければならない。ここが肝要である。注意したいのは真言句は意味を有しており音形をもって尊格の体を成しているという点だ。真言句にフィルター等を使用して音色を変化させる行為や、意味を為さない句の部分を抜き取るような行為は好ましいものではない。仏像で例えるなら、仏像の効力を他の道具等に移そうと試みたとして(この行為が可能不可能の話ではない)、際中に仏像を削り形を変化させたり像の一部分を切り取り示す行為は、仏に対して非常に無礼である。真言句の音色を変化させた結果生じた音が意味を失い、楽曲を構成する単なる享楽的産物の部品と化してしまっては本義から完全に外れる。今一度述べるが、肝要なのは演奏者の音に対する思念であり、三密の状態に入っているもしくは継続しようという意思を演奏中途絶えさせてはならない。まずは彼(彼女)が求聞持法(をルーツにもつ修法)の行者なのだから。それもなければ聴衆との唱和が成り立つはずもない。
*演奏者は印を組めないが、演奏行為ないし聴衆を印相と見做す。
*上記手法により、他の真言句やお経を自由気ままに使用してはいけない。相性の問題がある。虚空蔵とは名称より音場と矛盾せず、真言句を何遍も復唱することからミニマルリズムと相性が良いとした。さらには、空海修行の巌窟を密室と捉え音響設計の場を叶える。世俗一般で定着している音楽という日常行為から『虚空蔵求聞持法』に見られるように真言を何万遍も復唱する修行へと没入する(導入、導士)。
*遍路にもスマホのアプリ等で札所を巡るゲームがあるが、音楽をかける場においてこの行法を行う時間帯は決めてあるだろうから、真言句を一回読むのに何秒かかると計算出来るので、2時間だったら大体何回分唱和したなどと記録を残せる。目的回数に届くかどうか自己管理出来る。演奏者に1分間で何回、今回全部居たら何回などと一々説明させるようにする(ピッチも調整程度で、上記同理由より演奏で真言句が早巻になるような音加工は好ましくない)。
真言句と余韻
真言句から音楽句へと移行させた場合、真言句の余韻は句に依存するが際限無くは継続しないので、タイミングよく音楽句から真言句へと繋ぎ戻さなくてはなるまい。尤も、演奏時間一杯でも初頭句の余韻が続く、という事も無くはない。