教育について2
話が、「DJゲームは成人向けで未成年に勧めていない」という所から、教育の方に脱線しましたが、あのように言われると、未成年ならば「そんなに深く考えていないな。バカなのかな…」と、落ち込んでしまうかもしれないが、大体はそのような平凡な人間の方が多いはずです。私も完全にそうでした。
ところで、話が私の中学校の時になりますが、私はテキトーにサッカー部に所属していて、あまり練習に出なかったと記憶しています。今、テレビで、日本の例ですが、全日本代表の20代の若手選手が活躍していますよね。彼らは、20代から始めた訳ではない。やはり、未成年期に「このようになりたい」というキャリアデザインを実現させたのです。これが、俗に言う、「結果ではなく、経過が大事」という意味です。例えば、私は、実は内心、堂安選手が出来ることが、本当に私が熱心にやって出来ないのかな。つまり、堂安で出来るのに、自分がもっとサッカーを熱心にやったら、堂安ぐらいにはなるかな?無理かな?、なったかな?と、ちょっと思います。しかし、これは、ちょっと思っただけで、ただそれだけです。実際に中学校の時にサッカー部に所属して練習をあまりしなかったので、それが私の”サッカーの才能”なのです。
↓
「まあ、おじさんが、熱心にやったら堂安ぐらいにはなったかな?」
「あんた、何それ??」「もう、帰って」
と、飲み屋ですら(私は全然行かないですが)、シラーっとした空気が漂うはずです。
↑と、当人がどう思おうが、誰しもが、この上ない結果を残せるはずはないです。努力しても日本代表になるとは限らないし、そもそもプロ選手にもなれないかもしれないですよね?
上の、私の高慢な感じを膨らませて、私のサッカー選手としてのポテンシャルが堂安選手と同じくらいだとしましょうか。一体、私と彼の何が決定的に違ったのか?、それは、堂安選手は、未成年の時に、「こうなりたい」「こうなろう」という夢、目標を定めて、キャリアデザインを体現したのです。もう一度言いますが、高慢な感じですが、しかし、未成年期を含め、”人間として”の運動能力のポテンシャルが私より堂安選手の方が、絶対的に遥かに高いと、どうして言い切れるんです?…まあ、以前に、私は、「警察職員が剣道の日本代表になるが、こんな警察のクズがなるなら、自分がやったらなったに違いあるまい」と、申しましたが、それと今回は意味合いが全く違う。私は堂安氏の事をクズだと思っていない。剣道の方は、「こんな下劣な連中がなれるくらい低レベルだから」という意味だった。
今回の話は、だから、私を高慢な例にせずとも、他にも堂安選手と同等の、それを上回る運動能力のポテンシャルを持っている人間が大勢いるかもしれない。そして彼らは今現在、安い月給でやりたくもない仕事をしているかもしれない。一体、何が堂安さんと違ったのか?、それは、未成年期の「キャリアデザイン能力」が違ったのです。私が受験アドバイザーに翻弄されているような年齢時に、彼は、サッカーを通じて、着実に自己実現していったのです。
ゆえに、未成年期は、「成人後にどうなりたいのか」「どうやって生きていきたいのか」「どのようにして人生を充実させていきたいのか?」を考え、それに向けてキャリアデザインをする事がとても大事です。
今一度言いますが、「結果ではなく経過が大切」という事の意味は、「人間は、なろうと思ったものに必ずしもなれる訳でもないが、なろうと思わなければ、それになることは決してない」という事です。
↑これを、未成年たちに是非、言ってやりたいんだよね。必ずしも、才能、能力に応じて、社会的なポジションや高い給与が貰えるとも限らんだろ?、そういう、サッカーの足先の技術が云々、とかそういう細かい話じゃなくて、運動能力のポテンシャルで言うと堂安選手が全然及ばないような感じの人物が、例えば、AV男優になってしまって、体力をそちらに使っている、などというケースだって無くはないだろ?「もっと、若い時にサッカーでもバスケでも、何かやってりゃな」と言っても、後の祭りだろう?
なので、「俺、私、別にやりたい事ないんだよな。なりたい職業なんて無いんだよな」と、そういうのが一般的かもしれないが、それだと、なろうと思っていないので、何にも成れない。仮に何かしらに才能があったとしても、それになる事はないだろう。まあ、将来、何かやりたい事が出来るかもしれんがね。